tao-zeroのブログ

このブログは自分も含め、一人でも多くの人が自分の望む人生を送るための情報や氣づきの場と成ることを目的としています。

何かをするときは。

 

 

ここ最近の変化が定着しつつあって、ネットゲームに割く時間をほかの事にあてています。

 

 

 

 

1週間ほど前にさとりきねしのフルコースセルフヒーリングをしました。セルフカウンセリングから問題特定の情報収集まで独り言をいいながら(笑

 

 

 

ゴールセッティングは以前に月闇様とのやりとりで、手を付けられずに放置していた課題(返信さえもできていません、ごめんなさい)

 

 

 

①まずは収入をしっかりと得る。(自営にしろ就職するにしろ)

②エゴの健全な成長を意図しつつ、その成長阻害要因を見ていくこと(認識していくこと)

③家庭環境、両親との関係性をよく観察すること。

 

この3つ

 

 

私が退職後、友人等に言っている目標は

 

「人間卒業」

 

そして「この宇宙卒業」

 

認識を広げると

 

人間を卒業する境涯まで自己憐悶・被害者意識を統合・無にかえし、そこに至っても悔いや葛藤が残らないような状態になること。

そしてそれ以降は、無論表層意識では認識できていませんが

 

「それでありそれでない」

 

に気づくという目的「意図」を持って。

(ようやく言葉にできた)

 

 

 

 

・・・こうして言葉にすると恥ずかしいくらい傲慢ですね(苦笑

 

 

 

これは脇において

 

 

 

セルフで施術したテーマは6つ

 

「永遠恐怖症」

「依存症(中)」

「愚かさと距離を置く」

「時間泥棒」

「食べる」

「退屈」

 

今までは、2つ~3つがやっとでしたが、最初に永遠恐怖症をやったためか、自分のエゴ「もうそろそろやめようよ」

という声を押し切るエネルギーを何とか維持しつつ6つやりました。(3つほどはヒーリング体がかなり少ないのもあって)

 

6時間かかりましたが、終わってみると何とも言えない落ち着き感

 

この状態の体験を言葉にすると

 

感情にふりまわされづらい、一段上の位置

 

のような感覚

そして今まで思いを巡らせても表面を撫でてわからないやと隅においやっていた事柄の認識が広がるというか、変わるんですね。

 

いまブログを書いていても引き続き実感している事は

 

「食べる」こと

 

です

 

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わたしの過去ブログにも書いていますが、以前から不食のようなことを少しやっていまして。

それは周りからみれば、ある種、理解しがたい奇行であり理解のある人からすれば、一定の肯定はされるようなことですが、それを始めた意図はいくつかあったと今なら認識できます。

 

それは

 

①自分の健康を増進して、二十歳前後の力強さを取り戻し、仕事をきっちりこなし余暇を思う存分楽しむこと。

②未知のことを体験して、どんな状態になるのか。

③体をスリムにして、周りから賞賛されたい。

 

こんな感じだったと今、振り返って納得できています。

 

このエゴが強い限り、不食をする際に余計な苦しみは味わいにくいのですが、不食を認知してもらうことでこれらのエゴが、「もういいよ」

となって手放していくと

 

逆に苦しみや葛藤が生まれてくるんですね。始めた意図が達成されてもういいよとなっているのに、過去の思考パターンやセルフイメージから続けているため。

 

 

色々と前置きが長くなりましたが、

 

テーマの「食べる」を通して

 

今の自分に

 

 

なぜ食べる

 

 

 

何のために

 

 

をより力強く問いかけた結果、食べるについての意図を徐々に感じるようになりました

 

いまは

 

「幸せを味わうため」

 

という言葉がでました。

 

五感を使って食事を体験し、それを作るという過程を味わう。

 

 

 

皆さんはどう答えるでしょうか?

 

 

 

不食体験以前の私なら

 

食わなきゃやっていられない

退屈

幸せじゃない

身体が成長しない

筋肉がおちる

 

 

などといっていますね

 

働かざる者食うべからず

 

という言葉遊びも言うかもしれません。(遊びならいいです、呪いにまで発展しなければ)

 

 

 

 

それと

並大抵の努力では到底無茶だと感じていますが

 

「悟るため」

 

恐ろしく傲慢で無知なことですが。

 

だからといって打ち捨てておくことではなく、逆にそう思っていてもその人の自由意志なのでとがめられることはないと確信しています。

 

 

 

食べるという行為を通じて

 

 

食材に

それを手元に運んでくれた人々に

 

地球の自然・恵みに

 

うわべではなく、少しでも謙虚に感謝を感じること

 

例え、人工的に作られたものであっても

遺伝子組み換えであっても

 

良い・悪いはその人の都合によっていくらでも変わる

 

ただそこにあることに

 

 

 

ここまでよんでいただき、ありがとうございました。